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二重人格




突然の事故で妻・遙海が逝って十日、何も手につかず無為に日を送っていた私の許に一通の手紙が舞い込みました。

「奥様の突然のご逝去、お悔やみ申し上げます。

亡くなられた状況からお心を痛めておられることとお察しいたしますが、どうか奥様のことを理解し許してあげてください。

そのためにも一度、ここをお訪ねください」


差出人の名は、ありませんでしたが、整った女文字で書かれた手紙には一枚の地図と鍵が同封されていました。鍵は、レンタルルームのもののようです。

胸騒ぎを抑えながら私は、地図に示された場所へ急ぎました。

「○○署交通課の榎本と申しますが……」

突然、かかってきた一本の電話がこれほど私の人生を狂わせるとは……。

それは勤務時間がそろそろ終わる頃でした。

レントゲン写真の読影をしていた私に電話の主は落ち着いた低い声で、妻が事故にあって救急病院に搬送されたことを告げました。

取るものも取りあえず、隣市の病院へ急ぎましたが、そこで待っていた警察官から妻の死を知らされたのです。

「乗用車での単独事故でした」

突然のことに頭の中が真っ白になった私に、榎本と名告った巡査部長は淡々とした口調 で説明してくれました。



「奥様は、男性の運転するセダンの助手席に乗っておられたのですが、山間部の県道でカーブを曲がり切れずに15メートルほど下の谷に車ごと転落したようです。二人ともほぼ即死状態でした」



この日、妻は、行きつけの園芸サークルに行ってくると言っていました。

おそらく、私が出勤した後、お昼前には家を出たのだと思います。

園芸サークルには山野草が趣味の会員もいると言っていましたから、観察か採集に山へ向かったのだろうかと、ぼうっとなった頭で巡査部長の説明を聞いていました。

「今、ご遺体の解剖を行っています」

「えっ、解剖ですか……」

驚きました。

交通事故死で解剖が必要なのかと……。

「後ろを走っていた車の二人が転落の瞬間を目撃していまして、事故そのものに事件性はないと考えていますが、実は若干不審な点がありまして……」

言いにくそうに口ごもる巡査部長の様子に私は、言い知れぬ不安を覚えました。

事故を起こすほんの少し前、妻達の車は、電力会社の社員二人が乗るバンを猛スピードで追い越していったと言います。

その県道は、つづら折りの続く山道で、目撃者の二人は〈危ない運転をする奴だ〉と思ったそうです。

追い越して間もなく、妻達の車は、右カーブを曲がり切れずにガードレールのない山道から転落したと言います。

直前に踏んだブレーキ痕から時速80キロ近く出していたようだと、巡査部長は説明してくれました。

「目撃した二人が携帯で119番通報したのですが、奥様も男性も全身打撲でほぼ即死状態でした。ところが、不審な点というのがですね……」

顔を伏せながら巡査部長は言いにくそうに続けます。


「不審な点というのは、男性の方なのですが、下半身を剥き出しにして運転していたようなのです」

「えっ……」

思っても見なかったことに私は言葉を失いました。


「そういう状況ですので、今、解剖を行って詳しい状況を調べさせていただいているんです」

その時、どんな顔で巡査部長の言葉を聞いていたのかを私は、今に至るまで思い出すことができません。

私の様子を心配した榎本巡査部長に付き添われて霊安室に通されたのは、やがて真夜中を迎える頃でした。



「監察医の水野です。竹下さんですね、お悔やみ申し上げます。奥様の直接的な死因は、 後頭部の陥没骨折による脳挫傷でした。その傷は、運転席のハンドルで付いたものと見られます」


「事故車のハンドル下部に奥様の毛髪が付着していました」

巡査部長が補足を入れます。


「それは……」


「ご主人にこんなことを申し上げるのは忍びないのですが、奥様は運転席の男性の下腹部に顔を伏せた状態で事故に遭われたようです。つまり、いわゆるフェラチオを行っている時に事故が起きたと思われます。誠に言いにくいのですが、奥様の口中には男性の精液が認められました」


大地に開いた暗い割れ目の中に落ち込んでいくような錯覚に陥り、私は思わず妻の遺体が載ったストレッチャーの持ち手に寄りかかってしまいました。


「大丈夫ですか? それから更に申しますと、奥様は事故の直前に男性と性行為を持っていたと見られます。膣内からも精液が検出されています」

真っ白になった頭の中に、淡々とした口調で説明を続ける監察医の言葉が虚ろに響くのを私はただ無表情に聞いていたのでした。

「イレギュラーな点はありますが、事件性はないと判断しますので、ご遺体をお引き取りください」


「それから、ご遺体はこちらで清拭を済ませておきました。ご愁傷様でございます」


巡査部長と監察医に見送られ、葬儀社のワゴン車で病院を出たのは夜中を2時間ほども回った頃でした。


妻の両親は、結婚以前に死んでいましたし、私にも両親・兄弟ともにいませんので、従兄や親しい同僚だけでこぢんまりとした葬儀を出しました。

もちろん、誰にも事故の詳しい状況は話す気になれません。

傷一つない妻の死に顔は眠るかのように穏やかなものでした。



しかし、棺に横たわる妻の美しい顔がまるで全くの他人のもののように私には映ります。

見慣れたはずの妻の顔の奥には、まぎれもなく私の知らない女がいたのです。

泣き崩れることもなく淡々と弔問者に応対する私を、周りの者は、突然の出来事に動転して涙も出ないのだろうと思ったようでしたが、それは大いなる誤解でした。

私の心中は氷のように冷え切っていたのです。

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運転者は、木原貴史という男でした。

バツイチの独身者で、経営コンサルタントを営んでいたと言うことです。

身よりらしい身よりもなく、結局、遺体は遠縁の親戚が引き取って葬儀を出したと聞きました。


妻と木原は、事故を起こした県道を3キロほど奥へ行ったラブホテルで情交していたということです。

昼少し前にチェックインをし、事故を起こす15分ほど前に二人でホテルを出たようです。つまり、5時間近くも二人はラブホテルで時を過ごしていたことになります。


警察は、ホテルの従業員にも事情を聴き、同時刻にホテルを利用した客を調べようともしたと言いますが、密室性の高いラブホテルですから、ほとんど成果は上がらなかったと聞きました。

しかし、妻と木原が利用した部屋を清掃した従業員は、同じ部屋にもう一人、女性が居たのではないかと警察に話したそうです。

備え付けのシャワーキャップ以外に、別のシャワーキャップが脱衣所に落ちていたと言います。

しかし、妻と木原の体からは、アルコールや薬物は検出されず、目撃証言からも、事故についてはスピードの出し過ぎでの単独事故以外に考えられないことから、警察はそれ以上の捜査は不必要と判断したと後日、巡査部長から聞かされました。

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職場に休職願を出し、何するともなく日を送っていた私に件の手紙が届いたのです。

レンタルルームは、県庁所在地の駅裏にありました。

管理人に、部屋を借りていた妻が死亡したと事情を話すと、私の身元を確認の上、部屋を開けてくれました。

八畳ほどの倉庫のような部屋の中には、おびただしい数の衣装が吊されていました。

「私はこれで……」

管理人が去った後、私はしばらく茫然として部屋の中に佇んでいました。

部屋に溢れている衣装は、およそ私が知っていた妻の趣味に合うものではありませんでした。けばけばしいとしか言いようのない衣装の山の中に、数え切れないほどの下着が吊されていました。

そして、チェストの中にも詰まったそれらの下着は、どれもこれも一般的な主婦が身につけるようなものではありませんでした。

色とりどりのガーターベルト、極小のビキニパンティやもっと際どいTバックショーツ。ほとんどのパンティは、恥毛が透けて見えるようなスケスケのレースで作られています。

いくら鈍な私でも、それらがみんな、男との逢瀬の際に、男を興奮させるために女が身につける下着だということくらい分かりました。



下着だけではありませんでした。

チェストの下の段には、見たこともないグロテスクなオモチャが詰まっていました。

大小様々、何本ものバイブレーターにディルド、手錠や目隠し、猿轡に混じって、使い込まれた麻縄や蝋燭、果てはガラス製の浣腸器まで……。

アブノーマルなセックスやSMプレイに使われる道具一式が仕舞われていたのです。

それらのおぞましい道具と私の知っている清楚な妻とは、どう理解しようとしても私の中で結びつきません。

ただ、それらが整然と整理して仕舞われている様に、几帳面な妻の面影が浮かぶだけです。




小一時間も経ったでしょうか。

我に帰った私は、衣装の奥にラックに並ぶ数十本のビデオテープを見つけました。

背表紙にはタイトルはなく、通し番号とイニシャルと覚しき文字、年月日が記されています。

よく見れば、かなりの数のテープが抜き取られているようです。

胸を突くような不安に苛まれ、私はすべてのビデオテープを紙袋に詰めると部屋を出ました。


「あの部屋の契約は一応今月いっぱいになっているのですが、どうなさいますか?」

そう尋ねる管理人に、整理に少し時間がかかるので契約を延長したいと答え、手続きを済ませて家路に着きました。

--------------------

夕闇の迫るマンションの一室で、私は電気も点けずにソファに蹲っていました。レンタルルームから帰り着いてから、もう3時間近くが経っていました。


あの部屋の存在は、妻が私の知らないところで、全く別の存在として生きていたのだという事実を容赦なく私に突きつけていました。

その事実を認めないわけにいかないことは理解できても、恐らく、それを完全に証明するであろう持ち帰ったビデオテープを見る勇気が私にはありませんでした。

『どうか奥様のことを理解し許してあげてください』

誰とも知れぬ手紙の主の言葉が頭の中にこだまのように何度も響きます。

私は意を決して、一本のテープを選び出しました。

それのテープには背表紙に、No。54の1、H。T&T。K、0 8/03/18と記されていました。

その日付には記憶がありました。

学会出席のため、私が二泊三日で上京した日の日付でした。

背表紙に書かれたものと同じタイトルバックがしばらく続いた後、リビングのモニタに映像が映し出されました。

それはラブホテルの室内のようでした。

中央に特大サイズのダブルベッド、奥の方にはガラス張りのバスルームが映っています。

カメラは三脚に固定されているらしく、映像は薄暗いながらとても鮮明なものでした。

よく見ると、バスルームの中に動きがあります。

湯気と水滴でガラスが曇ってはっきりとはしませんが、誰かがシャワーを浴びているようです。

目を凝らして見るとそれは二人の男女でした。

シャワーの下で二人はぴったりと抱き合い激しく口づけを交わしているのです。

女の顔はぼんやりしてはっきりしませんが、容姿からして私は、妻だと一瞬に覚りました。

後頭部を一撃されたような衝撃が走り、一気に血の気が引いて視野が真っ暗になります。



大柄な男が小柄な女の体を抱き寄せ、覆い被さるように唇を奪っています。

そして、女は男の首に下から両手ですがりついて口づけに応えているのです。どう見ても力ずくで嫌々行われている行為には見えません。

その間も男の両手は、豊かな二つの乳房を代わる代わる押し揉み、ミッシリと実った尻の丘を荒々しく掴んでいました。

尻に回されていた男の手が、前に回り女の股間に滑り込んだ時、女は仰け反って唇を離しました。

濡れたガラス越しに見えた女の顔は、まぎれもない妻の顔でした。

その瞬間、私の中で、大切な何かが弾け飛びました。



男の手が股間で微妙に蠢く度に、妻は背中を仰け反らして体を震わせます。

前に突き出されて揺れる双丘に男が屈み込むようにして口を付ければ、妻の震えはにわかに激しさを増し、腰が悩ましくくねり始めます。


ぼやけたガラスの向こうで、妻は大きく口を開けて喘いでいるようでしたが、防音が良いのか声は聞こえません。

やがて、妻の体がガクガクと痙攣し、二度、三度と男の体に強くすがりつくような動きを見せました。

その時、微かでしたが妻の叫びが私の耳に確かに届きました。

それは、私は一度も聞いたことのないような、あからさまに絶頂を告げる高い叫びでした。

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妻・遙海は今から8年前、私が勤めている病院に事務職として勤め始めました。

中学生の頃に両親と死別した妻は、叔父夫婦に育てられ短大を出た後、都内の病院で勤務していました。

こちらへの転勤後、どちらからともなく惹かれ合って交際が始まり、2年後に式を挙げ、それを機に妻は病院を退職しました。


妻には妹がいるのですが、こちらは叔母夫婦に預けられ、その後、叔父・叔母が兄妹同士で疎遠になって、成人してからは会うこともなく過ごしてきたと言います。

造り酒屋として資産家だった妻の父の死後、兄妹間で遺産を巡る争いが起きたのだそうですが、妻は詳しく語ろうとしませんでした。そんなわけで、結婚式にも妻側の親戚は叔父夫婦が参列しただけで、私は今に至るまで妻の妹に会ったことはありません。

妻を育ててくれた叔父夫婦も3年ほど前に、相次いで病死したため、妻の葬儀には妻側の親族は誰一人来ませんでした。


遙海は、私にとって理想的な妻でした。

病院の勤務医の仕事は、経験のない人には想像もつかないほどハードなものです。

妻としての遙海は、医療関係者であったこともあり、そのことを熟知していました。

もし、遙海と一緒でなかったならば、私は勤務医を続けることができなかっただろうと思います。

それくらい細やかに、妻は私の心と体を毎日気遣ってくれました。いや、私はそう思い込んでいました。



セックスの面では、妻はほんとうに慎ましい女でした。

今となっては、私の前ではという意味ですが……。

妻が初めての女というわけではありませんが、私自身も、セックスには奥手で淡泊な男でした。

性での結びつきよりも、互いの価値観の共有や思いやりの深さでこそ、夫婦はより深い結びつきを得られるものだと思っていました。

そして、妻も同じような思いで、そんな私との生活に満足しているものだと思い込んでいました。


そんな私の思い込みの陰で、私には素振りも見せずに妻は私の全く知らない別の「女」として生きてきたのでした。

迂闊な男と笑われるかも知れませんが、妻の死後になって初めて、そのことを思い知らされるとは夫として残酷の極みでした。

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いつの間にか画面が切り替わっています。

バスルームでの戯れを終えたのか、男は腰にタオルを巻いてダブルベッドに仰向けになって新聞を読んでいます。



>>次のページへ続く

 
 
 

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